研修会・講座で学んだこと
研修会・歴史講座で学んだ内容は歴史アラカルトの次です。
歴史アラカルト
資料館で学んだ内容のほかに、私がTV番組から学んだ「歴史上の人物」について私なりにまとめてみました。
ガイド協会・郷土資料館で学びました
郷土資料館で開催される歴史講座での座学と、現地に出向いて見学したこと、さらにガイド研修会の内容をまとめてみました。
信長が築城した小牧山城の想像図
写真説明
上段 本證寺の太鼓楼 芳春院妙西尼の墓
下段 国重要文化財「柳堂」 妙源寺を開基した安藤家の墓
歴史講座 2007.2.17
家康を輩出した
緒川城主水野家の活躍
緒川城主であった水野家の娘於大の子竹千代は、後に徳川家康となり天下を治めた。今回はこの水野家について、日本福祉大学の講師高木庸太郎氏のお話を伺い勉強した。
水野家は幕府政治の要である老中を8人も輩出し、経済振興に大きく寄与した。さらに三河の大浜陣屋を支配して近隣の村々をまとめたことなど、意外と知られていないが、徳川の世を支え発展させた功績はとても大きなものがあった。以下は講師の資料とお話を、私なりに見だしをつけて流れを整理しなおしてみた。
水野忠友と幕府政治
田沼意次に引き立てられた水野家
水野忠清は家康、家忠に仕えた
忠重の子で勝成の弟である忠清は、幼い頃から家康、秀忠の二代の将軍に仕え、勝成が移転した後の刈谷の城主となる。その後吉田に移り、さらに信濃の国松本7万石の大名として赴任する。
しかし、6代忠恒は享保10年(1725)江戸城中で刃傷沙汰を起し領地没収となる。しかし、この場合でも家筋は配慮されて存続した。
水野忠友が出世してお家を復興させる
この没落していた家を復興させたのが、大浜に陣屋を置くことになる8代忠友であった。彼は将軍家治の幼少のころから仕えて、1760(宝暦10)年家治が将軍になるとともに出世する。
そして、1777(安永6)年には側用人となり、7.000石を加増され駿河の国沼津に領地替えをして城を築くことをゆるされた。
さらに、1781(天明元)年には老中格.勝手掛。侍従となり5.000石の増加、1785(天明5)年には勝手掛老中奥兼帯となり、5.000石の増加を受けて三万石の大名となる。
忠友のこの破格の出世の背景には、将軍家治の信任だけでなく、家治の時代に権勢を振るった田沼意次の引きがあった。
田沼意次は悪政をしたのか
これまでの研究では田沼政治については、商人と結びつき物価を高騰させた悪政であるといわれていた。しかし、資料的に田沼政治に対する批判的な記録は、反田沼派に属する人々のものであったり、田沼の失脚後に書かれたものが多く、それで田沼政治の全てを評価することはできないという。
経済振興による幕府の建て直し
近年の研究では、緊縮財政と過酷な年貢のとりたてを重視した享保の改革とそれを受け継いだ寛政.天保の改革とは別の方法で、幕府支配の建て直しの努力であったことが明らかになりつつある。
それは、活発化してきた商品流通に対応して経済システムを整備し、都市と地方の商人の活動を活発化させ、彼らから「税」をとり、彼らの財力で開発を促進し幕府財政を立て直す政策であった。
① 流通税の新設
田沼政治の行った一つは、商品ごとに問屋.仲間.小売といった流通段階で組織された仲間組合に対し冥加金をかけた。
② 統一貨幣システムを作る
新たな性格の貨幣を発行した。それまで関東は金、関西は銀と別立てになっていて、不都合の多かった貨幣システムの円滑な運用を図るものであった。金は一両小判があるように定量の貨幣だったが、銀はその都度測って流通させていたのだ。
③ 積極的な経済政策の展開
この他にも商人資本を組織して印旛沼の開拓や、北海道開発を計画するなどした。しかし、多くが計画段階で失脚し中止に追い込まれたが、積極的な経済政策であったとの評価が一般的になりつつある。
田沼意次は何故水野忠友を引き立てたのか
田沼意次は紀州藩の足軽程度の低い身分の家臣の出であった。父の代に八代将軍になった吉宗に従って江戸に出て、幕臣となり出世した。この田沼意次にとって、譜代家臣の由緒ある他の幕閣をとりまとめて、幕政を仕切るのには困難が多く、場合によっては彼らの抵抗にあう。そこで一番頼りになったのが、将軍家の親戚である水野忠友であった。つまりは家柄の良い水野家を取り込んで、旨く利用したに他ならない。
水野氏の格式と役割
忠友は彼の事績を記した「御家中興記」に、いつも役所から自分の屋敷にまで大量の書類を持ち帰って、深夜まで目を通していたという話が書かれているように、真面目で有能な人物であったと思われる。さらに履歴を見ると、日光や江戸城内の徳川家の廟舎の普請や将軍の代参が多いことが分かる。また、御三家や外様の大名との接触の仕事も多い。こうした仕事も、水野家の格式が意味を持ったと思われる。
田沼の没落と忠友の対応
一方忠友は、先輩である田沼意次から政治について多くのことを学んだ。そればかりか、田沼家の財政家に沼津藩の財政指導を依頼して、経済に強い家臣を育てた。さらには、沼津城の築城にあたり松本時代からの軍学者の設計図を破棄して、田沼家の軍学者の図面を採用し、大工棟梁も田沼家お抱えの者に水野藩譜代の大工を指導させた。 しかし、浅間山の噴火、天明の飢饉などが続き米価が高騰し、各地で一揆や打ちこわしが頻発して田沼意次は1786(天明3)年に罷免され、一万石の大名に格下げされる。すると忠友は、変わり身早く即座に田沼から迎えた養子を離縁する。同年10月に将軍家治が死に、田沼派は一掃されるが、忠友はすぐには老中を罷免されない。二年後に免ぜられるが、1796年には老中に帰り咲いている。この背景には、変わり身の早かった忠友の態度だけでなく、彼の家柄と譜代大名の中での人脈を活かした様々な交錯があったと思われる。
水野忠成と幕府政治
水野忠成(ただあきら)の経済活性化策
田沼からの養子を離縁した後に、養子として迎えたのが忠成である。彼は旗本の次男であったが、17歳の時に水野の分家である浜町水野家の養子となる。忠成は将軍のお世継ぎであった家斉に仕え、その信任のあつい小姓であった。また、実父は江戸城の奥役人で将軍の子女たちの世話をするなどして、大奥と深いかかわりのある人物だった。そして、家斉が1787(天明7)年に11代将軍になると、忠成はその側近として出世していく。忠友が失脚しなかった一つの理由はこの辺りにあったのだろうと推測される。
忠友の死によって忠成が家督を継ぐのは、1802(享和2)年41歳の時であった。その年に奏者番、1806(文化3)年に若年寄と出世して、1818(文政元)年勝手掛老中.老中加判となり、以後17年間に渡って幕閣のトップに居続けたのである。
将軍家斉の「大御所政治」
この時代は一般には、将軍家斉の「大御所政治」とか「文化.文政期」といわれている。それは幕府が崩壊への道をたどる直前の、文化の最も華やかな時代である一方で、風俗も政治も怠惰に流れた時代として語られてきた。政治も「水野出てもとの田沼となりにけり」といわれ、田沼時代の再来であって規律が緩み賄賂が横行し物価の高騰した悪政の時代とされてきた。
水野忠成の実像
しかし、忠成は忠友にもまして有能な人であった。例えば、幕政の人事を左右できた彼の屋敷には、当然登用を求める大名.旗本が売り込みに列を成した。家臣が適当にあしらうことを勧めたのに対して、噂だけでなく人物を評価するには、会ってその意見を聞くのが一番であること、さらに自分を売り込むような姿勢がなければ役に立たないことを述べている。こうした彼の対応もあって、売り込み合戦は過熱し、持参する贈り物で忠成は贅沢な生活をしているという悪評が流される。しかし、この時代こうした贈り物は一般的なもので、彼が特別な存在であったわけではない、と見るべきである。
大御所政治と水野忠成
松平定信の寛政の改革を受け継いでいた老中松平信明が、1817(文化14)年に死んだ後、水野忠成は幕政の中核となる。そして病気で死ぬまで17年間、将軍の絶大の信頼を得て政治の実権を握った。この時代の政治も悪政の時代として描かれてきた。しかし、近年の研究では近代日本につながる諸要素を育んだ時代であると同時に、幕府の崩壊を促進する諸要素をも醸成した時代として描かれつつある。
貨幣改鋳はマイナス面も、
しかしプラス面も大きかった
忠成は老中になるとすぐに、それまで通用していた元文小判等の金銀貨幣の改鋳に着手した。「文金」「分銀」と言われた新しい貨幣を次々に発行した。この貨幣は「元文小判」が金の含有率が65.71%であったのに対して、文政小判は56.41%と品位の悪いものであった。改鋳額は、金4820万両、銀およそ22万5000貫で、この交換差額で幕府が得た収入は550万両にも上った。この結果、幕府の財政危機は解消されたが、貨幣流通量は46%も増加し物価の高騰を引き起こしたのは事実である。しかし、一方で幕府財政の好転は、支出増大による消費経済を活性化させ、江戸をはじめとする都市の消費生活の向上と文化の爛熟をもたらした。同時にそれは全国各地の商品生産を刺激し、全国的な商品流通を活発にしたのである。 この時分に今の小料理屋が江戸に生まれ、三河や尾張から酒、味醂が大量に運ばれた。さらには火事に強い瓦も江戸へ運ばれたのである。そして、この時代の経済の著しい発展と新たな質こそが、幕末の不平等条約の下での開国によって、世界市場の荒波にさらされながらも、植民地化することなく、早期に近代的資本主義的発展の道を歩むことのできた経済的要因となったとする見解もでている。植民地化についての評価は別にしても、この時期の経済発展が、近代日本の資本主義化の直接の前提となったことだけは間違いない。
地方分権の源 改革組合村
次に忠成の政治で注目されているのは、改革組合村の設定である。これは幕府領、旗本領、小大名領が入り組んだ関東において、それまで個別の村単位で行ってきた地域支配を、村々の連合した組合村を作り、その自治の力で地域の秩序を安定させる政策である。その背景には、商品流通の活発化に伴い無高の賃稼ぎ層と、地域を移動する人々が増大した。それと共に無宿人、浪人、強盗など地域の秩序が極めて悪化していた。こうした事態には個別の村では対応できないので、村々は連合して組合村を作り対応するようになる。こうして形成されつつあった、村々の連合した自治の力を公認し支配の基礎にしようとした。これが改革組合村政策であった。そして、これも近代の地方自治に繋がるものであるという指 摘が近年出ている。
将軍家斉の子の押し付け
将軍家斉は子女55人を、御三家.御三卿の一族では納まらず、譜代.外様も含め広範囲にかつ強引に縁組を行った。その結果旧来の秩序を壊し、諸藩にさまざまな不満を残した。 例えば尾張藩では、家斉の長女を始め4人の子供が押し付けられた。それは藩士の不満を募らせ、4人目の時には反対の嘆願運動になり、幕府の幕閣と対立し、独自の行動をとった第14代藩主慶勝の登場となる。また、縁組先の大名へのさまざまな優遇措置は他の大名の不公平感を醸成し、かつ、幕府の旧来の家格秩序を大きくゆるがすこととなったのである。 こうした、家斉の子女と各大名との婚姻の仲介をしたのが、水野忠友.忠成と天保の改革の担い手となった浜松の水野忠邦であった。忠成の時までは不満は表面化しなかったが、忠邦の天保の改革の強引な手法と結びついてその不満は爆発する。
以上のように忠成の政治は、幕府政治の最後に安定していた時代であり、近代日本の発展の諸要因を醸成した時代である。しかし、それは同時に幕府崩壊への前夜でもあったといえる。
水野家の大浜陣屋支配
水野家の「西三河領有とその政策」
1768(明和5)年、旗本水野忠友は若年寄となり、それまでの南信濃8.000石に加えて、5.000石を与えられ13.000石の大名になった。西三河に与えられたのは、大浜村など6.900石で、碧南市域で与えられたのは、大浜村と鷲塚村だけである。1777(安永6)年忠友は将軍家治の側用人となり、7.000石を加増され2万石になる。この時、信濃国佐久郡内の領地は返上し、駿河国駿東部に14.000石の領地を拝領し沼津築城を許可される。さらに1781(天明元)年、忠友は老中格となり5.000石増加となり2万五千石になる。この時棚尾村と兵七村も沼津藩になるのである。
ついで、1785(天明5)年、忠友はさらに5.000石加増されて三万石の大名になる。この時、幡豆郡内の寺津村が与えられ、大浜陣屋支配下に入る。1821(文政5)年には、忠成は勝手御用掛を精勤したという理由で、一万石加増を受け四万石となる。この時、伏見屋新田(1178石)と伏見屋外新田(195石)が領地となっている。それとともに、幡豆郡の上横須賀村(1035石)と下横須賀村(790石)も大浜陣屋支配に組み込まれている。
そして、1830(天保元)年忠成は、越後国中蒲原郡五泉地区に5.000石加増されて五万石の大名になるのである。以上のように、忠友.忠成の二代にわたり、8.000石の旗本から五万石の大名になる中で、沼津水野家は、碧南市域と西三河の碧海郡.幡豆郡に多くの領地を持った。その石高は、およそ一万三千石におよぶ。西三河には岡崎、西尾、刈谷、挙母に大名の城下町があっ
たが、大浜に城はないものの、大浜陣屋の設定はそれらに対抗する、新たな領域的中心が誕生したことを意味する。
大浜陣屋は西三河の流通の重要地点を支配
大浜陣屋領が西三河に持った意味の大きさは、領地の規模以上に領地の村々の性格にある。
大浜陣屋跡の碑
そのことを知るために「大浜陣屋支配村々一覧」、「大浜陣屋支配領域図」から、支配領域の範囲と性格を考察すると----------。
領域としてまとまっているのは碧南市域だけで、他は安城市、岡崎市、豊田市、西尾市と広い範囲に散在している。しかも、他の領主との「相給地」で村の一部だけが領地である所が多い。
この中で、一村全体を領地にしているのは、碧南市域以外では新堀、花園、寺津、上横須賀、下横須賀、赤松、中根の村々である。これらは有力在郷商人の居る商品物資の集散地である。
新堀には西三河有数の木綿問屋の深見家が、花園は寺田家がある酒と木綿の積み出し地である。横須賀も木綿の集散地で、寺津は年貢米を江戸へ積み出す港ではないが、浦として伊勢、三河湾の海上運送の拠点であった。碧南市域の大浜村は言わずと知れた港で、鷲塚村も港である。油が渕は昔は三河湾の入り江であり、そこに突き出た岬が港になっていた。つまり、大浜陣屋は西三河の流通の重要地点の村々を支配下においていた。しかも、こうした狙いが当初からのものであったことは、1768(明和5)年の時点で大浜、鷲塚、新堀を領有していることが示している。このように大浜陣屋は、領地の規模以上に西三河の商品流通において大きな位置を占めていたといえるのだ。
有力商人をご用達として掌握
大浜陣屋はこれらの有力在郷商人を、「ご用達」として掌握した。これらの人々は木綿だけでなく、酒、醸造、塩、鋳物、瓦、廻船などの担い手である。つまりこのことは、地域のほとんどの産業も掌握していたことになる。そして、九重味醂の石川家文書には、16名のご用達が五千両の御用金を納めている文書も残されている。つまり、水野家の大浜陣屋領支配の目的の一つが、有力商人の掌握と御用金の調達にあったことは間違いない。また、彼ら用達の多くは名主や「割り元」を務めるなど、この地域と村のまとめ役でもあった。大浜陣屋は彼らに苗字帯刀を許可し、紋付小袖の着用を許すなど特別の身分として遇し、円滑な地域支配を図った。「大浜陣屋日記」(杉浦弘家文書)や「名主役儀日記」(九重味醂石川家文書)を読むと、陣屋での年頭の挨拶から地域の諸問題の処理、文化的交流、冠婚葬祭に至るまで、陣屋と用達との関係は日常的で実に深いものであったことが分かる。
大浜陣屋の陣容
水野家は財政に強く、地域の実情に詳しい者を大浜陣屋に送り込んだ。そうした人材は、いずれも立派に仕事を成し遂げ、出世していった。そのため大浜陣屋への赴任は、藩士の財政官僚としての出世コースに位置づけられていた。それは、ここでの経験がそれほど有益であったことを意味すると同時にこの地域の経済活動の活発さをも意味していたといえる。そんな大浜陣屋の役人の数は、代官が2.3名、手代が2~5名ほどである。江戸や沼津から赴任してきているメンバーは10人にも満たない。それに、郷方と呼ばれる土着の者で、代々勤めて日常的に村民と接している役人が5~10名いるだけである。その理由は、他の城下のように軍事と治安に携わる番方が一人も居ないことである。もちろん彼らも警察の役割はしている、しかし、大浜陣屋は基本的に事務官僚によって構成されていた。ここに水野氏の支配の特徴が端的に現われている。
産業の発展と前浜新田の開発
沼津水野家による大浜陣屋支配の時代は、碧南市域の村々の発展の時期であった。それは「大浜陣屋支配村々用達一覧」において、商人が1769(明和6)年から1840(天保11)年にかけて2名、1名、5名と増加していることからもうかがえる。村の経済活動の発展は、人口の増減に端的に現われる。そこで大浜陣屋になってからの人口推移を見てみると-------------
1767年 1841年 1867年 倍率
大浜村 5461人 7463人 8611人 1.58
棚尾村 997人 4733人 5790人 5.8
鷲塚村 1934人 2332人 2540人 1.31
そして大浜陣屋領でなかった旗本本田氏の西畑村と比較してみると
1829年 1844年 1871年 倍率
西畑村 1675人 2311人 1810人 1.08
この大浜の8611人、棚尾の5790人という人口が、特別な数字であったことを理解するために、1896(明治29)年時点の城下町であった刈谷と、宿場町であった知立の人口を比較してみよう。なんと刈谷町 2676人、知立町 3531人であった。
棚尾村の人口増加の背景
大浜村に隣接する棚尾村で、5.000人近く急激に増加した。その理由を調べてみると。棚尾村の1876(明治9)年の職業別調書に寄れば、総計1171戸の内、農業917戸78%、商業103戸9%、工業99戸9%、雑業25戸2%、兼業22戸2%とある。商工業は約20%もあり、この数字からだけでも棚尾村の人口増が諸産業の発達によることを示している。しかし、80%を占める917戸はほんとに農業で生計を立てていたのであろうか。というのは幕末の1869(明治2)年の1177戸の内「本百姓」は485戸だけで、他は土地を持たない水のみ百姓であるからだ。これら水のみ百姓は、村内の小作だけでなく、他村への出稼ぎと浜稼ぎであったという。また、この地域は「三河木綿」の本場で、女性たちは木綿の糸繰りと機織で生計を立てていた史料もある。
つまり、棚尾村の急激な人口増は①商工業の発展 ②他村への出稼ぎ ③漁業④湊.浜での賃稼ぎ ⑤女性の木綿稼ぎ を背景としている。
前浜新田の開発
棚尾村の出稼ぎで大きな意味を持つのは、前浜新田の開発である。1785(天明5)年寺津村の吉兵衛が、幕府に願い出たことに始まる。
しかし、近隣の村々の利害が対立し、幕府としても方針を出せずにいた。こうした状況が変わったのは、伏見屋新田など周辺一帯が大浜陣屋領になってからである。以後村々の調停が進められ、合意ができて1926(文政9)年に幕府の許可が下りて、堤防が完成したのは翌文政10年だった。開発新田の面積を183町歩として、伏見屋新田野地主である平七村の中根又左衛門が34町、同じく伏見屋新田の地主藤次郎が56町、大浜村が45町棚尾村が45町の割合で引受けるというものであった。この村々の調停に尽力したのは、棚尾村の名主で斉藤伊助であった。しかし、彼を含めて開発資金を出している者の多くは、大浜陣屋の用達であり、この背後に大浜陣屋と沼津水野家の、意図と力も働いていたことは間違いないと思われる。この前浜新田開発の経緯は、沼津水野家が矢作川と油が渕と衣が浦に囲まれた、碧南市域の村々を大浜陣屋領に組み込んでいった理由を物語ってもいるのだ。
大浜が正式な「湊」に認定される
棚尾村と大浜村の水のみ百姓にとって、賃稼ぎの場として大きな意味を持ったのは、大浜の湊としての発展であった。しかるに大浜村の水野家の領地化は、その発展に大きな意味をもったのだ。
現在の大浜港 港近くでは小魚の天日干しが見られる
大浜は幕府領時代から、幕府の年貢米を積み出す三河「五箇所湊」の一つであった。しかし、幕府の認める正式な湊ではなかった。正式な湊でないと、浦の取り締まり権を持つことも、船問屋を置くこともできなかった。大浜が正式な湊になれたのは、大浜陣屋領になって水野氏を通して幕府の許可を得たからである。以後、大浜は「湊」としてさらに発展した。
大浜の街並の形成
大浜村の発展は、当然普請を活発にする。急激な人口増は、狭い路地と密集した住居の町場を形成する。同時に産業の発達は、在郷商人の生産の場を兼ねた広い屋敷地を広げる。また、蓄積した財力は寺の伽藍の建て替えを促進した(西方寺.海蔵寺)。大浜称名寺の場合は、延宝年間に伽藍をことごとく焼失し、再建の願いを水野忠成と彼の死後は忠邦を通じて幕府に願い出る。
そして、ようやく1842(天保13)年にその願いを果たした。
太鼓楼のある学校としても使われた西方寺 竹千代(家康)命名の由来となった称名寺
大浜の街並を特徴づける多くの要素が基本的にこの時期に形成されたといえる。
水野忠成死後の苦難と碧南市域村々の協同
江戸前期は産業も文化も、関西でつくられたものを江戸が消費.需要する構造であった。その姿が江戸後期になると消費だけでなく、江戸独自の生活文化が形成され、また、それを供給する産地が関東に形成されたのである。
この時代三河や尾張では江戸廻船によって、酢や味醂、瓦、木綿を積み出し大いに発展した。しかし、文化文政の華やかな時代も文政末年頃から天保初頭にかけて、飢饉が続き米価が高騰。再び一揆が頻発するようになっていた。こうした中で、1836(天保7)年には三河でも加茂郡で一揆が起こる。翌天保8年には大塩平八郎の乱が起こり、水野忠成の政治に対する批判が、その権勢に対する反発も含めて表面化する。こうした中、水野忠成死後の沼津水野家に対する、幕閣の対応は極めて厳しいものであった。一万両の金の上納、前浜新田の1050石の上地をさせ、さらには1843(天保14)年6月には、印旛沼の開発の普請を命ぜられる。こうした幕府からの藩へのさまざまな負担増は、御用金と賦役の増加となって領内の村々の負担を大きくした。
白須賀宿の助郷の異常な賦課
これまで大浜陣屋領の村々は、その庇護もあって助郷を免れていた。しかし、忠成の死後はそれがかけられたのだ。そして、その負担はそれまでの優遇の反動であろうか、他村の助郷に比べて極めて負担の大きなものだった。当時の助郷は、直接人を出すのではなく、宿の問屋に金銭で払うものであった。その金額は、村の石高の内の一定部分を「勤高」とし、この高に応じて人夫の数を決め、その賃金分を払うというものであった。その割合が一割か、二割が大半であった時に大浜領内の八ケ村に対して、実に八割二分という高率がかけられた。そのため棚尾村では毎年80両近い負担であった。これに対し、八ケ村は組合村をつくり、江戸まで出向いて嘆願活動を行った。そして、二回目にしてやっと他村並みの負担が認められた。でもこれらの嘆願活動に多額の費用がかかった。初回の出府費用が209両、二回目の費用308両、三河での活動も含めると総額2262両もかかっている。
この結果、棚尾村ではかかった費用に比べ、減免された金額の方が少なかったのである。
組合村による村々の連合と自治
こうした村々の共同の取り組みは、碧南市域と大浜陣屋領の連帯を強め協同化を促進するものであった。これまでも用水.悪水普請においては、以前から行われていた。
こうした「地域の力」を重視した大浜陣屋の支配のシステムが、水野忠成の時代に形成されていた。この「地域の力」は忠成死後の苦難の時代にこそ、その力を発揮し村々の協同を進めるのである。それは、この「地域の力」が沼津水野家と大浜陣屋の力を超えて、発展しつつあることを示している。